ゴジラ岩観光 > 流氷遊ウォーク > 知床の冒険家 〜川端隆〜
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知床の冒険家 〜川端隆〜
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 今から38年前この知床に偉大な冒険家2人がいました。知床半島を18日かけて流氷の上を徒歩で踏破。その間約100キロ。そこには様々な体験とある老人との出会いがありました。ただ広がる流氷原を危険を顧みず進み続けた二人の冒険家。当時町役場に勤めていた川端 隆(当時31歳)とその友人でもあり写真家として活動していた中町 保正(当時33歳)。この二人の知床に対する熱い思いがこの偉大なる冒険を成功に導きました。川端氏はこう言う・・「私は冒険家ではありません。一町民です。ただこの知床への強い思いがあったんです・・」その後、数々の挑戦者を拒絶したこの知床。厳冬期に、流氷の上を歩き半島を周るという偉大なる功績を残した二人の、最初で最後の冒険を史実を元にご紹介させていただきます。

 昭和44年2月23日、知床半島東海岸に位置する羅臼町を出発。家族の反対を押し切り、様々な思いを胸にこの冒険に挑んだ。2歳と4歳になる息子の顔を見つめ「もしかしたら二度と会うことはないかも・・」泣きじゃくる息子たちを前に「絶対に生きて帰ってみせる!」と心に誓う。

 羅臼町沖に見える流氷に船でたどり着き、流氷の上に立った瞬間、不安と期待、様々な思いが交錯した。そしてこの日は妻との結婚記念日。川端氏は流氷の上に張ったテントの中でそのことを思い出していた。翌日目が覚めると強風が吹いていた。流氷は風に弱く、風が吹くと流氷ごと沖に流されてしまうこともある。そうなると流氷の割れ目もできやすくなる。風が止むのを待ち、二人は出発した。ダンボール12個にも及ぶたくさんの食料、カメラ機材などを一度に運ぶことはできない。2個、3個もって2キロくらい歩いてはまた戻り荷物を運ぶという繰り返し。そして流氷の上は単なる平らな雪道ではない。海面が見えるほどの薄い流氷や高低差のあるところもある。割れているところがあれば遠回りをし、丈夫な氷盤を探して進んで行った。

 そして出発から5日たった頃、知床半島の岬にたどり着く。左写真は風船岩。知床の突端の海に浮かぶように立っていたこの冬の風船岩をカメラにおさめることが川端氏の念願でもあった。そして奥に見える小さな灯台が知床岬灯台。昭和38年の8月に点灯された。そしてこの風船岩はこの灯台が出来るまで知床岬で今ある灯台の変わりをを担っていた。この海域を行き来する漁師にとってはとても重要な物標になっており、知床の突端ではシンボル的な存在である。もちろんこの厳冬期は流氷により船は航行できない。そして今、この岩を見ることは出来ない。二人がこの冒険を終えて5年後、役目が終わったかのように押し寄せる流氷により根元から折れて海没した。この写真は公私ともに大変貴重な写真である。

 冒険中、大好きな写真を撮るたびに川端氏は家族のことを思い出していた。「今、自分がやりたいことができるのは家族のおかげだ!」と。そして必ず生きて帰るんだと胸に言い聞かせ流氷の上に足を進めた。

 知床半島を周りしばらく進むと大きな湾にたどり着く。ホロモイというところだ。「ホロモイ」とはアイヌ語である。「ホロ」→「大きい」 「モイ」→「湾」 「大きい湾」を意味する。ちなみにこの「知床」という地名はアイヌ語の「シリエトク」が語源である。「大地の終わるところ」「地の果て」を意味する。

 そしてこのホロモイには番屋があった。サケマス漁業の番屋である。そしてそこには網を守るため一人の老人がいた。10月から5月の雪解け時期までこの番屋で一人で網を守り続けるこの老人はオホーツク老人と呼ばれていた。

 二人が番屋を目の前にしたとき番屋にはランプがついてあり、煙突からは煙が出ていた。「中に人がいる!」早速二人は番屋の中へ入っていった。「ごめんくださーい!」老人の第一声は「誰だっー!どこから来たっー!」。驚くのも間違いない。船が行き来できないこの知床の冬に、交通手段がない岬の突端までまさか流氷の上を歩いてくるとは誰も思わない。その後、近くでテントを張ろうとした二人に老人は「うちにとまってけ。」と食事と宿を与えた。その日二人は氷のベットから久しぶりに暖炉と人の温かさに触れて老人の番屋で宿をとった。「あの時老人が出してくれた煮豆は決して格別に美味しいものではなかった。でもその煮豆が甘く感じたのは老人の暖かいやさしさがあったからだ・・・」。

 その夜老人と布団に入りながらいろいろな話をした。その中で老人は言った。「一人はやっぱり寂しい・・」と・・。

 そして夜が明けて出発の準備をしている二人に老人が話しかけた「頼む。もう一晩泊まっていってくれ。」老人も寂しかったのであろう。その言葉にうれしく、二人もよろこんでもう一晩宿をとることにした。
 「爺さんもう一晩泊まっていくよ!」
 夜までの時間の間この辺りを歩き回った。この知床にはたくさんの奇岩が立ち並ぶ。そうして夕方頃、流氷原に沈むすばらしい夕日を見た。

 番屋に帰るとやたらと猫が多い。
 老人に聞いてみる・・・
 川端氏
 「爺さん。なんでこんなに猫が多いんだ?」
 老人
 「ねずみから網を守るためだ」
 老人もこの猫たちを世話することで少しは寂しさも紛れていたようだ。
 川端氏
 「爺さん、今の一番の楽しみは?」
 老人
 「流氷が去ってここに漁師が戻ってきた頃、ここを無事に明け渡し町に帰ることだ。」
 川端氏
 「じゃあまだまだあるけど頑張ってくれ。爺さん」
 老人
 「私のことより頑張るのはお前たちのほうだ。」
 こんなやりとりの後、知床半島の西海岸の危険なところなどを老人に教えてもらい、明日の出発に備えた。その晩二人は老人にお世話になったと砂糖と切り餅をお礼に預けた。

 出発の日、いつもどおり荷物を背負って進んでは下ろし、また戻りまた荷物を背負って進む。そして最後の荷物になったとき老人が言う。「食べていけ」。お汁粉を出してくれた。それは二人が渡した砂糖と切り餅で作ったものだった。この二人が訪れてから惜しげもなく限りある食料を与え、そして二人がお礼にと渡した砂糖と切り餅までもがお汁粉に変わり二人の目の前にある。老人は「最後に・・」とそのお汁粉を二人に出してくれた。二人はお汁粉よりも暖かい老人の優しさを感じながら両手を合わせる気持ちでお汁粉を腹いっぱい食べた。

 「じゃあ、爺さん行くよ。」二人は出発した。老人は見えなくなるまで二人に手を振っていた。川端氏はこう言う「今でも流氷が来ると老人に手を合わせる気持ちになる・・」と。

 3月11日、岩尾別に着いた。そこにはサケ、マスのふ化場があり、卵を守るためにそこには夫婦がいた。そこを尋ねると「もしかして川端さんですか?」(何で自分のことを知ってるんだろう!?) 実はその頃全国的にテレビで放送されていたのだ。(そういえば昨日ヘリコプターが来ていたなぁ・・)

 実はこの件にはエピソードがある。ヘリコプターが来たとき川端氏は手を振っていた。それを見たカメラマンはうれしそうに「川端さんは元気に歩いています!!」と中継。だが実はヘリコプターの羽の風力で氷の塊りがバンバン自分に飛んでくる。「やめてくれ!」という意味で手を振っていた川端氏。いずれにしても無事であった。

 そして夫婦は「家族がいるのであれば・・」と電話を貸してくれた。受話器に手を伸ばし、かけた電話の向こうで聞こえた声は4歳の息子。「お父さーん!!」そのとき川端氏の胸は熱くなった。安堵の気持ちから目には涙が滲む。「お母さんは元気か?明日ウトロ着いたら家に帰るからな!」

 翌日3月12日13時20分頃 18日目 白灯台を交し20日間の有休を2日残し、ウトロの港に手を振りながら入った。そこにはたくさんの報道陣、地元の人たちが迎えてくれた。涙があふれた。冒険中、一時は本気で死を覚悟した。だが今こうして自分はたくさんの人たちの前に立つことができた。
 そして何より家族との誓いを守ることができた。

 −必ず生きて帰ること−

 いろいろな思いが胸を過ぎった。
 その後、川端氏は記者会見で忘れられない一人の老人の話しをした・・。

 川端氏は現在66歳になる。何よりも知床が好きだと言い張る姿はとても70歳を迎えようとしているようには見えない。今でも老人のことは忘れない。昨日のように覚えていると言う。そして観光船でたまにホロモイを遊覧することがある。そして番屋を見ると思いだす。あの暖かいお汁粉の味を・・。


川端 隆

2000年に定年退職。
その後ホテル知床にて「厳冬の知床、流氷原に挑む」の講演活動を行う。
また当社流氷遊ウォークのガイド講師を務める。
気さくな人柄はいつもみんなに元気を与えてくれる。